無価値なものつくろう、
全力で。

夜な夜な仕事をしながら、ときおり誰かとディスカッションをしている。
たいていの人に「これ、ムッチャおもろいと思うんだ!」って会話しても「???」となるようなものごとも、同じテンションで議論してくれる友人たちがいてよかったと常々思う。

今日、若いのに田舎のスナックのママみたいな声をしている塚田ありなとメッセージのやりとりをしていた。
東京時代から、今に至るまで議論の中身は常々異なるが、たいてい同じテンションで会話が続いている。
彼女の活動は「SYNAPSE」を筆頭に確実にこれからの時代重要な役割を担ってくる。

ビジネスもカルチャーもクリエイティブも、原風景のまま広がっていくわけではなく、常にその景色は高速に移り変わっていく。
今までに存在しない領域が生まれ、そこが次の時代をごろりと動かす。そんな時代がまさにここ数年の空気のように思う。
そういった時代に、編集者やライター、コーディネーターと呼ばれる肩書きを持つ人たちが、その領域を鮮やかに超えて異なるものと思われていた世界を結合したり、通り道をつないだり、中間点を見出してお互いのフィールドを行き来し、時には眺め学び、新しい血流を生み出している。

そういったある意味オバケ的に領域の壁を悠々と超えて、好奇心のまま接触していく人たちが国内に数人いて、そんな彼ら彼女らと意見交換をする。
そんな仲間の一人な塚田ありなとのメッセで

「無価値なものつくろう、全力で」

という言葉がpostされて、本当、そうだわ。と松倉は痺れた。
それまでの文脈がわからないと、何いうてんねん。ってなるので端折って説明すると。
目的先行のものづくりって、あかんよなぁという会話から。
ビジネスだったり、話題になったり、という”目的のためのクリエイション”は、純粋にものづくり・事づくりの起点として、どこか違う気がするなぁという話ね。

とはいえ、会社をやったり、話題になったり、ビジネスになったりすることが僕らの生業ではあるわけだ。
しかし、そうはいっても僕らはクリエイションで商売をしている。すごい矛盾してる!
ただ何か仕事とは関係なくことを起こそうと考えた時に「好きだから」という気持ちより先行して、採算性であったり、実現可能性を自然と考えてしまうのは、クリエイションに対するビジネス感の弊害だなと思い出させてくれた一言だったわけだ。

ただただ好きで生み出した、マーケットや大衆からは意味を見出せない無価値なものっていうのが、計算できない熱量やクオリティで今までの固定化された価値観をぶち壊していくんじゃないか。価値あるものなんて、実は意外と言い切るのが難しい。この文章に価値があるか?そんなの書いてる時点で判断できない。価値は産み落とされたあとに見出されるものだから。

だから、最初から価値あるものなんて生み出す前提でいることは、本来のものづくりにおいて何の後押しにもならないのだろう。
今、ぼうっと考えても価値あるものの定義は難しい。そして、「価値観」という言葉が示すように、それは「価値を観る」ことであって、人それぞれの視点の有り様を指している。

であれば、今から生み出そうとしているものごとは、無価値だ。
それが生み出された先で、誰かが価値を見出すかもしれない。
誰も見向きもしないかもしれない。
そんな先のことはどうでもいいのだ。
大切なのは、今生み出そうと思っているものに最大限の愛情を注ぎ込むことだ。
そういったクリエイションが僕もしたいと思ったし、そういうマインドを決して忘れてはいけない。

忘れないために、メモがてら、今週の週報。

無価値なものつくろう、全力で。