歩くことの難しさ。

春のような陽気と降ったり止んだりの大雨。
関西では出かけるには、微妙な週末。晴れ間を狙って少しだけ外出した。
傘を持って来ればよかった。遠くには黒い雲が少しずつ近づいてくるのが目で確認できた。

先週、今年の大きな仕事でもある某プロジェクトの打ち合わせを缶詰で行っていた。
音楽家、伝統工芸、ダンサー、テクノロジーと様々な要素がクロスオーバーする状況を作ろうとしている。普段仕事で会話する機会がなかなかない表現者たちと意見を交わし、未知な領域に踏み込んでいくワクワク感がある。

打ち合わせする中で「歩く」という演出要素が出てきた。シンプルな歩くという要素が象徴的に描かれるシーンだ。それはいいかもな、と打ち合わせの空気が動く中、ダンサー/演出家の方が「歩くっていうのが、一番難しいんですよね…」と言葉をこぼし、僕だけじゃなく参加した人もピシャリ!と背筋に電流が走るように思考がぐるっと方向転換をさせられた瞬間だった。

自ら演じるから、自ら演出するからこそ、言える意見であって、「歩く」ことを「演じる」ことなんて普段ない僕からすると想像の世界で語っていることだ。しかし、彼にとってはイメージすることと体を動かすことは鮮やかな無数の線で繋がっていて、シンプルで当たり前の動きにこそ難しさを見ている。恐れ入ったってこういう時にいうんだな、とおすそ分けされた彼の世界を美味しくいただいた。

そんなことがあって以来、週末に外に出たときに人が歩く仕草を眺めていると、もう無数に人の生き方それぞれのように歩く姿は異なっている。勝手に僕の中で歩くイメージは一つだと思っていたが、その一歩一歩に人生が残り香のように残像していくものだった。
こうやって異分野の人と出会うことで日常のすぐ隣にある当たり前のことが恐ろしいほどの階層をもっている、なんてことに気づくことができる。それだけでこのプロジェクトに参加したお徳感が凄い。

逆に反対の立場で僕を見られた時に、こちらが伝えることにも同じ可能性を帯びているのだと考える。だから、人は惹かれ合うし、自分が持っているものを共有しあうのだろう。無数の視点を集めて、ものごとをたくさんの目や価値観で見ることができると普段無意識に流れていく物事全てが鮮やかな彩りを帯びる。

職種不明で領域をやんわりまたいで横断してるような仕事だからこそ、様々な出会いを経験に変えることができる。色々もらって、色々あげて、より言葉では言い表せられぬ存在になりたいものだ。